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寒い。

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フォレスト・コーミング

結城伸子さんの「海と森の標本函」という
本の中で「beachcombing」ビーチ・コーミングは
「海辺を梳くように探す」という意味で、森の場合は
「フォレスト・コーミング」と書かれていた。

この本では、著者が今まで海や森で拾い集めてきた、
ちょっとヘンテコでも美しいモノの写真、それらをきれい
に洗浄し煮沸や漂白をして、標本にするようなやり方が
たくさん紹介されている。

そこに写っている海洋生物名や植物名の種類から属性
原産地まで細かい表記も。また「いつどこで誰が採取したか
のラベル」をつけると楽しみが増えるとか、飾り方まで
とにかく親切な本で著者のヘンテコ自然物に対する偏愛?
がたっぷり詰まった楽しい本なのでした。

ここで気が付いたことがひとつ。
この本に惹かれたのは、ここに写っているヘンテコ自然物
がわたしも大好きだからなのですが、わたしは標本
(コレクション)にすることには、まったく興味がないこと。
また名前も属性も原産地も調べて記録することもしないで
あろう事実。(教えてもらったら、嬉しいのだけどね。)

それよりも、それを「どう使うか」に興味を持ってしまう。
どう飾るか、これで何か造れないか、デザインの元に
したろーという作家的発想。また、それを「どこで誰に提案
するか」をすぐ考えている商売人目線が、いつもアタマから
離れない。

つまり、そのモノに興味があるのではなく、あくまでも
「それ、と自分(他人を含む)の関係性」の方に気持ち
がいつも向いている。(それさえも俯瞰していたい。)
自分で自分のことがよく解らなくなるけれど、こうやって
ひとつの「タカラモノ」をみつけたとき、その先にある行動
パターンでその人の本性がちょっぴり解るような気がした
のです。

フォレスト・コーミングというほど立派な話ではないが
覚えたてのその言葉を使いたくて、公園で葉っぱ採取。
もちろん、来週の雑誌撮影用よ。(ふふふ)





 
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自分を媒体にするということ

●華道家の平間磨理夫さんと展示打合せ。
先日の花生けライブの際に花材でコラージュをしている
ように見えたことは、大きな意味で間違いなかったと思う。


9月末『ギャラリーみずのそら』で行われた「西荻サーカス」
の際に、わたしが作ったバルーンのような
何だか怪しい作品
について言及してくれる。その作品、そのものというよりも
そこにあったことの効果についてなど。

 
平間さんは、自分の好み(そもそもないらしい)で作品
見ない。そのせいかもしれないが、モノや空間が正確(?)
見えているような気がする。
 
「作品そのもの」がいいということは、もちろん大事だけど
展示会では、いかに空間を味方につけるかということがさらに
大事になってくる。その部分にいつも失敗し続け諦めかけて
いたことだったので、とても嬉しい。
また別の視点で、作品をつくることができる。
 
平間さんが、やろうとしていることのひとつに「花で彫刻
をする」ということよりも、それらを使って「まわりの空間
をつくる・生かす」作業があるということ。
つまり自分を媒体にするということ。
 
素材を生かす。空間をつくる。
色(光)、音、匂い、感触、空気、それから時間と矛盾。
そいうモノに気が付く装置を作る展示にしたい、と思った。
 

ずいぶん、大それたことを書いてしまった…
大丈夫か?わたし。
 
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この一年から始まります。

 ●誕生日祝いのメッセージを下さった皆様。

ありがとうございます!!どこかで誰かが
見ていてくれると思うと、頑張れそうです。

昨日で39歳になりました。
40歳まであと一年。

最近、新たに「種まき」を始めたことの芽が
一年後には出ること、を期待しつつ。

また一年後にする個展(わたしの中では初めての
インスタレーション)のための準備。

クラフトやコラボ雑貨のお仕事。

40代を「お楽しみのメニュウ」で埋めるために
すべて同時進行ですが、少しづつ、着実に育てて
いこうと思っています。

明日もがんばろー!

そう考えるようになったのも、先日悲しい
出来事があり、しかしそれを自分ではどうすること
もできず。その事実よりむしろ、自分の感情の

処理の仕方の方が問題だったり。

それを飲み込むのに精いっぱいだったのですが、
そもそもその原因を作ったのは、自分の依存心や
弱さのせいで…そんなことにまたガッカリして、
しばらくはボンヤリしておりました。

しかし、そんなことをずっと考え続けていても何も
解決するわけもなく、仕事でアタマをいっぱいに
して気持ちを切り替えするしかなく。

今までも、悲しいことがあっても結局は、仕事や
絵を描くことで自分が救われています。
そして、それを応援してくれている人がいると
いう事実も。

みんなありがとうー!
今年も頑張ります。(わたしは自分の誕生日から
一年が始まる制度にしています。笑)



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解らないものは、解らない。

解らないものは、解らない。

何で、こんなにひねくれた性格になったのか?
とか、何で音楽じゃなくて、絵画だったのか?
とかよく考えたが、それを止めることにした。

問題が深刻であればあるほど「その原因は?」
という話になる。しかし、実際に原因が解った
からといって、みんなが同じ方向性で解決など
しないことが、ほとんどだ。

知りたいと思うことを、各自が納得のいくまで
整理するところまではいいと思う。それで、
気持ちがスッキリすることもあるだろう。

ただ、探りつづけても自分の状況を変えない
かぎり、問題解決にはならない。またすべての
人に問題解決できる能力が備わっているとも
限らない。

そんなことを思うようになったここ最近、ある
程度のところで原因を探ることを止めることにした。
それは自分の問題が表面上は様々であっても
掘っていくとすべての「根っこ」が同じところに
あるから。

それ以降、その一番の「根っこ」を変えてゆく
よりも、その根っこを「違う角度から見る」
努力をしてる。そうすると、自分の問題だと
思っていたことを生かす方法を考えるようになった。

たぶん自分の「根っこ」は変わらん。
とりあえず、今はそれでいい。

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分類している場合ではない。

 
いつも何かを考えるときに、シロとクロを
「分類して考えよう」という安直な癖がある。
さらに、その中でいつも自分がいる側を
「低く」見るのが残念賞な感じ。この癖の
理由を考える。
 
たぶん、数の問題の話でどうも世の中に対して
少数派だと思われる方に、寄っていたいという
願望だと思う。つまり「ちょっと特別でいたい」と
思っているだけ…また同じところにきてしまった。
少数派は決して特別じゃなくて「違う」だけなのに。
 
こういう分類ばかりしていると、自分(他人)が
「どちらか」ということにしか目がいかなくなる。
こういう、解決方法だと、『どちらも』ということが
難しくなり、つい自分とは「違う」側を攻撃してしまう。
(羨ましいだけなのに!)
 
 
現実は違う。
もっとグレイだ。わたしの中には、どちらもの
願望もあるのに、どちらかを選んだフリをして
迷わないようにして、矛盾を受け入れていない。
 
人間は矛盾している生きものだ、ということを
理解するようにしたい。
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身体と精神、どちらも大事。

 ●自分で自分を苦しめていたことがある。
モノを作る人が誤解していることがある。

『商品(雑貨)より作品(アート)が上』
『目に見えるもの(物質や身体)より見えない
もの(精神)の方が上』というような幻想。

仕事とやりたいことを「分ける」という発想は
それでいい。だけど必要以上に「割り切って
やる」とか「世の中に迎合したら終わり」とか
いう必要がどこにあるのか。

何故そこまで自分の身体(生活)を支えている
仕事を蔑まなければいけないのか? 自分の
やりたいことは、そんなに美しいのか?

「どちらかが、上」じゃなくて「どちらも必要」で
その間を繋ぐことが大事な気がする。

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空耳あ〜わ♪

 鈴虫が、鳴いておりました。秋がやってきたのかな。
ヨーロッパの人には、こういう感覚(感情)がなくて
ノイズ(虫の声ということはわかる。)に聞こえるって
ホントなのか???
言葉と音の関係を探ってたら、出てきた話なんだけど。
ちょっと面白い。→「言葉の始まり」


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概念しかない。

欧米人には「肩こり」がない、という話は有名
だけど…。先日TVを見ていたら、アメリカ
からやってきた歌手が『日本に住み始めてから
「肩がこる」ようになったんです』なんて言ってた。
そんなアホな!と思って考える。

「肩こり」にあたる英語が「have a stiff neck」と
いうから「肩こり」ではないのはわかる。日本人
が「肩」と言っている場所が彼らには「首」らしい。

しかし、日本人も夏目漱石が「肩こり」という表現
をするようになってから「肩こり」という症状を
どんどん、訴えるようになったらしい。

つまり言葉として、その概念を意識したとたん
「肩の筋肉が硬くなる症状に気が付いた」と
いうこと。たぶん上記のアメリカ人歌手も
そういうことなんじゃないだろうか。

そう考えると、身体的なこと以外にも、ふだんから
自分がいかに「言葉」という概念に囚われている!
救われている!ということに愕然とする。

そういう、ものすごく「あたりまえ」なことほど、
ずぐに忘れちゃうんだよなぁ。否、忘れてるんじゃ
なくて、過保護すぎるのか!?
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自由とは、なんと不自由!

●暑い!

仕事でもないのに、絵を描いて混乱している。
あーでもない、こーでもないの繰り返し。

仕事でもないのに「何か描かねば!」と思う
ことはシアワセなのか?

仕事でもないのに「描く時間がある」ことが
シアワセなのか?

自由ということは、なんと不自由なんだろう!


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